<文化拠点>をめぐる 現代の「三方よし」を探して

いろいろな<文化拠点>にお話を聞きにいきます

スウィングキッチンYourさんへ

このブログでは、私自身が問いをたずさえながら、ここは<文化拠点>だと私が受けとった場所をめぐってお話をうかがい、そこから感じたこと考えたことを書いています。

 

今回はスウィングキッチンYourさんへうかがいました。。

お店正面

 

前回の記事では、望ましいあり方のように思われている「自己完結(自立)」と「孤立」が双子のように極めて近しい関係にあるのではないか、いかに自己完結できるかではなく、人と人、ものとものの<あいだ>こそを豊かにしていく必要があるのではないかという提起をしました。

 

quicksandtsir.hatenablog.com

 

 

自分にとって新しい場所をめぐることは、自己完結に閉じた空間の外に出ていくことです。

 

頑丈なビルのように揺るがなく自分を確立させ、機関車のようにまっすぐ決めた目的に邁進していく自分にするのがいいように思われたりもしますが、人のあり方を見ていると、私は自分の知っている外のものに出会って、自分が変えられてしまうことのほうが大事なのではないかと思っているのです。

 

自分が出会ったものに変えられながら、もやもやしたもの、うやむやにされていたものをあらためて考えなおします。そしてめぐりの過程をシェアすることによって、このブログを読まれた人が、お互い全く関係なかったかもしれない、ある場所と別の場所のあいだに、ささやかな「通路」を感じられるようにもしなれば嬉しいです。

 

さて、行っただけ、聞いただけ、よかったね、面白かったね、だけに終わらないように、新しい場所にうかがうことによって、せめて自分が考えていたことを少しでも更新できるように、問いをもっていきます。

 

新しい場所に訪れることは、自分がもっている問いの答えを更新することということにします。それでは、問いです。

 

【問い1】 何かをやろうとするときに、関係者が疲弊していかない場のあり方とは何か。疲弊や停滞がその時代の基本的な物事の捉え方に依拠して生まれていると思われるとき、どのように時代のものの見方の落とし穴にはまらずにいられることができるだろうか。

 

まず、私には、ある場なりコミュニティというのは生きものであり、旬のものであるという認識があります。

 

できたばかりの場所には、そこにさまざまな可能性を感じ、期待をもつ人たちが集まります。そして試行的、実験的な取り組みがなされます。

 

そのようなやりとりは、完成されたものの上でおこるやりとりとは違うように思います。いつもなら型通りのやりとりで終わる人と人とのやりとりが、いい意味でできないので「その人に出会う」ような体験がおこりやすいのではと考えています。

 

「出来上がったもの」は完成度が高いかもしれませんが、その前段階に動いていた可能性がなくなっているように感じます。いろいろな人たちが、みんなに開かれた場所ということで場所をつくりますが、ある程度時間が経つと、大体同じ人が同じ雰囲気や場の状態で何かをやっているようになって、そこで既にやっていることはやれるけれど、触発されるような空気感というようなものは感じられなくなっていきます。

 

ある場所は一つの生きものなのであって、その場所をどう使うかをいかに自由に考えようとも、何かを刷新しようとしたとしても、なんとなく限界があると思えます。特に同じ人がやっている場合はそうだと思います。それは良い悪いではなく、そういうものだと思います。

 

Yourさんの一旦の閉店は大変不幸なことですが、その少なくない衝撃は、同時に大きな変化の機会になりうるものだと思います。

 

Yourの再始動のためのクラウドファンディングで300万円が集まりました。それは単にお金のことだけでなく、多くの人が新しいYourと新しい関係性をつくりだそうとしたということだと思います。

 

私はあるコミュニティが時間が経つとともに、来る人関わる人が決まって、そこでおこることも決まってしまい、だんだんとエネルギーも減っていくことをコミュニティの「老化」ととらえていました。

 

そしてこれまではどのコミュニティであれ、コミュニティの老化は残念ながら必然であると思っていたのですが、Yourさんに触れ、それまでにあった人間関係の広がりに接点を持ちつつ、新しくなることは可能なのだと思うようになりました。

むしろ、一から新しいコミュニティをつくることに劣らず、いい意味でそれまであった歴史的・社会的・環境的文脈をひきついで可能性をふくらませることができるように思うようになりました。

 

ただここでしっかり踏まえておきたいことは、Yourさんの場合、再始動のプロジェクトはなんとなく始まったことでもなく、むしろ切実な危機のなかで危機に向き合い、立ち向かった結果として生まれているということです。

 

「子孫に美田を残さず」という言葉があります。意識するしないにかかわらず、先代の作ったものがいいからなんとなくそれの続きをやろうとしたり、最初から「美味しいもの」の遺産や恩恵にあずかろうという実態が勝っているなら、可能性というのはむしろ減じていくように思います。

 

何かをつくった先代は、うまくいくかいかないかも確かでないまま、そのことに自分を賭けているのだと思います。一つ一つの行動や発想は、その賭けのリスクを知りながら研がれます。

 

既に出来上がった制度やものの上に乗っかってそれを利用しようとする出し惜しみの身体性と、賭けている人の研ぎ澄まされた現実意識をもった身体性は全く違うものと思います。もしかしたらその身体性こそが何か新しいものを展開させていくときに、大きな効果をもたらすものではないかとも思います。

 

再始動されたYourさんは始まったばかりで、いろいろなことを試行錯誤されている状態だと思います。しかし私はそれこそ人と人が出会ったり、つながってその後に面白いことがおこる可能性に満ちているときだと思います。

 

訪問したときは、思いもしませんでしたが、その後クィアランチという月に一回のランチを自分たちもやることにもなりました。Yourさんの近くには「となりの人間国宝」で紹介されたHOMEさんという素敵なカフェもあり、これから龍安寺界隈の動きが楽しみです。

 

3月まで毎月第一日曜日に行われるクィアランチのフライヤー



次回は、京都で初めての貸本棚の本屋さんをはじめられた「こもれび書店」に訪問します。

はじめに 「あいだ」の貧困としての孤立と回復

海外協力隊に行っていた経験をひとづてに聞いて、印象的だったことがあります。

 

それまで電気が通ってない村に電気が通ると、めでたい反面で、それまで家と家のあいだ、その地域にあった活発なコミュニケーションが激減したというのです。

 

そこから、もう一つのお話を思い出します。

小山田徹さんという美術家の方が関わった、災害で家を失った人たちに提供される仮設住宅が集まった地域のお話です。

 

仮設住宅ができあがる前、地震があった直後は、ここにおられる方々は、家を失うという大変つらくきびしい状況にありました。しかし、人々のあいだでは一方でお互いを助け合い、お互いの気持ちを救う、人間らしく温かいやりとりが活発にされていたそうです。

 

ところが、待望の仮設住宅ができあがると、皮肉なことにその活発なやりとりが減ってしまいました。仮設住宅に住む人たちが今度はそれぞれに孤立してしまい、時には周りの人にしばらく気づかれないまま孤独死するようなこともおきるようになりました。

 

小山田さんはその地域に「焚き火」というしかけをもちこみました。実は、仮設住宅ができあがる前は、人々は焚き火をして、誰を拒むでもないちいさな集まりがそこここにあったのですが、仮設住宅ができあがると焚き火はなくなってしまっていました。

 

そこで小山田さんは、仮設住宅ができあがっていても、あえて焚き火を復活させることにしたのです。焚き火は、別に特別の用事や緊急性がなくても、自然と人が人に出会い、話しややりとりが派生するスペースを提供しました。

 

mishimaga.com

 

今ご紹介した海外と国内の二つのお話から考えられることはどういうことでしょうか。

 

その一つは、人々は、隣人と出会ったり、話をしたり、結果的に助けてもらうことなどが潜在的に必要であっても、そういうことが自然に派生するような場所がなければ、実際にはそのような、緊急ではないけれど、人が生きることにとってとても重要なニーズを十分に満たすことができないのではないかということです。

 

もし緊急的に誰かの体が悪くなれば、もちろん病院にも行くし、周りの人もそこに気づいて助けるでしょう。でもなんとなく調子や気分が悪いとき、「迷惑や負担をかけるかな? 今、あの人に会いに行ってもいいのかな?」と思う人は多いでしょうし、断られることや相手に負担に思われてしまうこともあります。

 

人に助けを求めて会いに行くハードルは実際にはとても高いものです。助けを求めるとまでいかなくても、話をしにいくだけでも、よほど親しい人でもなければわざわざ特に用事もなく「話をしましょう」と誘うのは一般的な感覚としても難しいでしょう。

 

人には、緊急の用もなく、「何しにきたの?」と言われることもなく、自然と、かつ自分なりに人と出会ったり、話したりする場所が必要だと思います。

 

もう一つは、今述べたこととも関わりますが、暮らしが自己完結ですんでしまうことの問題です。

 

自分だけでさしあたりの用が足せること、日常で必要なことを自分で済ませられようになってしまうことが、「自立的」で「人に迷惑をかけていない」「気が楽」などとみなされる一方で、人と人が自然に会うきっかけも奪っています。

 

お互いに知っている誰かと誰かが出会うと、別にとりたてて用事がなくても、思い浮かぶことが話にでるのではないでしょうか。あるいは、そういうつもりがなくても、相手が元気かどうか、表情が明るいかどうかなどが伝わってきます。

 

そこで相手との間でされた会話が心に残って、その後の行動や考えることが変わることもあるかもしれません。

 

用事がなくても人と人が出会うということで、自分が思っていること、予想していること以上にたくさんの情報がやりとりされ、お互いに影響を与えあっています。

 

人と人が出会うということは、話すことも話さなかったこともふくめて、お互いの様子や状況を共有することであり、意識していなくても、そういうつもりがなくても、お互いが存在するその環境を少し豊かにすることなのだと思います。

 

インターネットが発達し、メールやSNSで人とやりとりすることはできますが、そこでおこるやりとりは、意識的にやろうとしていることだけになり、たとえるならばもう既に決まっている点と点同士を結ぶ一本の線だけのやりとりになってしまいます。

 

それに比べると、人と人がとりたてて用があるわけでもないのに出会うときには、特にこれをしなければならないということもなく、お互いに気持ちも立場も自由なので、出会う相手にあわせて思い浮かぶことがたくさんおこります。

 

たとえるなら、それは多数ある点と点、あるいはひとかたまりの空間と空間が出会ってやりとりするようなことだと思います。出会う前には特に話そうとは思っていなかったこと、予想してなかったことが結果的にたくさん話されることは決してめずらしいことではありません。

 

さて、これまでをまとめます。

 

誰かに会うことで満たされたり、展開がおきたりする潜在的なニーズや重要性に対して、実際には人が人に出会おう、話しにいこうとすることは難しい。

 

加えて、現在の社会環境では、それぞれの人の暮らしはいい意味でも悪い意味でも自然と自己完結に閉じるようにできていて、皮肉にも災害でインフラが機能停止するような状況にならないと、人と人が出会い、自然とお互いの気持ちがケアされるようなやりとりが派生する機会が実態として奪われている。

 

放っておけばそれぞれの人が潜在的な出会いの機会を失い、自己完結に閉じて孤立してしまう社会環境に対しては、小山田徹さんが被災地で人と人の豊かな「あいだ」を回復させる「焚き火」を見つけたように、文化の工夫を重ねることが有効なのだと思われます。

 

こういうことを話す際には、えてして、昔のコミュニティに戻ればいいというような、昔か今か、あちらかこちらかという知っているものの二択におちいりがちでもありますが、あちらかこちらかではなく、必要なものを「そこに重ねる」という発想が重要だと思います。

 

電気の開通や仮設住宅の完備によって人々のあいだのやりとりが激減したとしても、だからといって以前に戻るのではなく、今の状況のうえに、人と人が自然と出会い、やりとりがおこるような仕組みを考え、今の環境に重ねていくと発想するほうが実際的です。

 

ところで、ここまでお話ししてきて、自己完結することと孤立することが、そんなに遠くないものなのではないかとお感じになる方もあると思います。自己完結と孤立にはまるで双子のように他人とはいえない密接な関係があると思います。

 

もちろんここでも、自己完結がいいのか、他人に助けをもらうのがいいのかという、あちらかこちらかの二択にして考えることは全く実際的ではありません。今ある状況や環境に必要なものを生み出し、重ねていくことが重要です。自己完結的なことと、自分以外の他人に依存していることは、同じ人のなかで同時に存在し、重なっています。

 

ただ社会環境の現状としては、「自立」や「人に迷惑をかけない」という自己完結の価値は、非常に支配的です。何も意識していないと自然に自己完結に閉じてしまうので、意識してそれぞれの自己完結を抜けだすことを重ねていくとよいのではないでしょうか。

 

既に自分が知っているもの、わかりきっているものの少し外のものに出会っていくことで、それぞれの人や集団の自己完結のあいだが豊かになっていきます。

 

もちろん自己完結に閉じているといっても、決まった人や集団との決まったやりとりは常にしています。ですが、先も述べたように、そのやりとりが一つの点と点、そこを結ぶ一本の単線でつながっている状態にあり、同じやりとりしかおきにくい状態になっているように思います。

 

その単調な単線的状態から、お互いにとってよいと思われる様々な可能性が生まれるような、多数の点、そしてその点を結ぶ多数の線が重なった豊かな「あいだ」がある状態を生み出したいのです。

 

さて、今は少し前に比べて、多くの場所が禁煙になり、副流煙の影響を受ける人たちが楽になり、セクハラめいた言動をしていた人も表立ってはそういう言動がしにくくなりました。昔はなかった状況が現在では更新されて存在するようになっています。

 

ブラジルの教育哲学者のパウロ・フレイレは、今の社会をもう決まったものとしてとらえず、変わっていくものととらえるべきであると言いました。フレイレからみれば、社会環境が更新されていくのは歴史的な必然であって、社会環境は常に変わっていくプロセスにあるのです。

 

もし未来のよりよい社会環境があるとすればどういうものかとイメージしてみるなら、昔にあったコミュニティのいい要素と現代の都市的な人と人の関係性のいい要素を工夫して重ねた、豊かな「あいだ」がある社会環境を思い浮かべます。

 

私はもちろん未来に行ったわけではありませんが、今まで自分が触れさせてもらった様々ないい場所の特徴をふりかえってみると、それらの場所の良さは、それぞれの人がいいと思えた未来のイメージを自分の周りにちいさく実現し、シェアしていることなのではと思います。

 

私には、いわばそれらの場所は10年後、20年後、あるいは50年後、100年後の未来を先取りしていて、本来そうあるべきだと思った人と人の関わりをその場所にちいさく実現しているのではと思えるのです。

 

坂口恭平さんという建築家であり、アーティストである方が、「プライベート・パブリック」という言葉を紹介されています。その言葉で表現されることは、公共的なものは、実は個人の奥底にある感性や倫理性から生まれてくるということだと思います。

 

そういう人たちは、どこかのえらい誰かに承認されるわけでもなく、またお金儲けになるわけでもないのに、その人が見つけたいいもの、いいことをそこに実現して、結果的にその実現に出会う人たちに新しく生み出された価値と豊かさをシェアしているのです。

 

しかも、そういうことをしているのに、自分は人のためにいいことをやっているというような、おしつけがましい認識を、ほとんどもたれていないことが多いです。むしろ、自分が好きだからとか、自分が救われるからとか、したいことをさせてもらってありがとうとでも感じているような、そういう認識なのです。

 

このブログでは、そういう営みをされている方の場所を<文化拠点>ととらえます。ここでいう<文化拠点>とは、そこにいる人が自分が深くいいと思えることや価値を人にシェアしている場所のことです。そこは10年後、20年後の未来をちいさく浮かび上がらせた場所です。

 

そのような<文化拠点>をめぐり、その場所に自分が出会っていきたいと考えています。

 

そして、そういう営みをしている人たちから、今の社会環境や自分自身が生きることをどのようによりよくしていけるのか、あるいは回復させていくことができるのかという問いをもって、それぞれの<文化拠点>から見えてくることを書き留めていきたいと思います。

 

ブログサブタイトルの<現代の「三方よし」を探して>は、かつて近江商人の哲学としてあった、売り手、買い手、世間の三方によいことをすることが、結果として自分たちも依拠している社会基盤をすり減らさずに元気にすることなのだという考え方をヒントにしてつけたものです。

 

自分、相手、そして自分と相手、人間社会だけでなく、それを包む周りの自然がともに回復していく営みを重ねることが、現代のいわば「三方よし」だと思います。これからめぐっていくそれぞれの<文化拠点>にも、自分、相手、人間社会だけでなくその周りを包む世界の三方の回復が自然と備わっているような予感がしています。

 

第一回目の文化拠点の訪問先は、右京区の立命館大学の近くにあるスウィング・キッチンYourさんです。

 

ritsumeikanunivpress.com

 

Yourさんは、様々なかたが立ち寄るジャズ喫茶として長らく営業されていましたが、店主の方の急逝により、店を閉められました。その後、Yourの再開をめざす方々が再始動プロジェクトが立ち上がり、クラウドファンディングで寄付を集め、2023年9月25日にリニューアル・オープンされています。